その世代論は違う

あちらのコメント欄に書くか迷ったのですが、本筋でない細部への反応なので、自分のところに書くことにします。

科学と生活のイーハトーヴ » 書評:「科学は誰のものか〜社会の側から問い直す」より引用:


 本書の第一章で触れられているが、1964年生まれの平川少年は、アポロがいる月を見上げ、大阪万博に行き、輝かしい未来が科学とともにあると信じていた。そして、その夢から醒める1970年代を体感している。

これを1964年生まれの標準的な感性だと思ってもらうと困ります。

私も1964年生まれで、科学に対する感度が同世代では高いほうの少年でしたが、「輝かしい未来が科学とともにある」などとはまったく感じていませんでした。現代の科学技術はとてつもなく低水準であり、自分は誤ってとんでもない未開社会に生まれたしまったと、感じていました。決定的だったのが、1973年のパイオニア10号による人類初の木星フライバイ観測でした。たしか、新聞の一面に写真が掲載されていましたが、それを読んで感じたのが「初? しかも、通り過ぎただけ?」でした。多数の観測衛星が木星衛星軌道を公転していて、観測データが常時送られてきていて当然という感覚をもっていたらしく、それに比べると、やっとこさ一機通り過ぎただけというのは、当時の私にとっては、信じられない低水準の技術水準でした。

あとからふりかえると、その感覚のおかげで、科学技術への幻滅とも無縁でいることができました。(自分自身も含めて)こいつら全員、未開人だと認識しているのだから、何があっても「未開人のすることだから、そんなものだろう」「未開人にしては、よくやっている」と感じますので。

研究者になったのも、この感覚があったからでしょう。こんな未開社会だったら、自分程度の者にも出番があるだろうと感じて研究者を目指してしまいました。で、なれちゃったんだから、やっぱり、ここはとんでもない未開社会なんですね。と、今でもこの感覚はひきずっています。

もちろん、私の例は +2σ でしょう。でも、それなら、引用文の例も同じく+2σ です。