不完全性定理は「現代科学の限界」なるものを示してはいない(号外)

不完全性定理は『真であるが証明できない文が存在する』ではない」を8割ほど書き上げて多忙のまま放置しているタイミングで、たまたま発見しました。

「数学屋のメガネ」2008-09-28(khideaki著)より引用


ゲーデルの定理は、「自然数論において、真でありながらもその公理系では証明不可能な命題が存在する」という言い方をされることが多い。しかし、数学ではその命題が真であるという判断は、証明されて初めて確立するのではないか。証明とは独立に真であることの判断が出来るのだろうか。しかしそれが出来なければ、ゲーデルの定理におけるこのような言い方は出来なくなる。

真であることと証明できることとの明確な定義はどうなっているのだろうか。この疑問にうまく答えることが出来ないので、ちょっと気になっている。今持っている基本的な考えは、真であるという判断は、やはり証明できるということにかかっているのだが、公理系の中の証明と、それを超えたメタ的な証明とがあり、真であるという判断に、証明のレベルの違いが入り込むのではないかということだ。証明という言葉の持つ意味に違いがあるのではないかということを漠然と感じている。ゲーデルの定理に関してちょっと調べてから考えをまとめたいと思う。

「数理論理学を学んできました」と自称していて、これはあかんでしょう。形式的体系における「真である」と「証明できる」の定義は、数理論理学の教科書の最初のほうに書いてあることですよ。それが「この疑問にうまく答えることが出来ない」では、半期の入門コースでも可すら出ませんね。私の担当科目では出しません。

普通に読むと、ゲーデルの定理云々の文脈だから形式的体系での話だけど、そこを目をつむって数学における「真である」と「証明できる」が何であるかについてだと解釈しても、辻褄が合いません。数学において「真である」と「証明できる」とは何かは、原理的には数理論理学の外の問題です。「ゲーデルの定理に関してちょっと調べて」どうにかなる話ではありません。微分方程式とその解の定義は解析学の教科書の最初のほうに書いてあるが、微分方程式を解くことが現実の物理現象を調べることに対応しているかどうかが原理的には解析学の外の問題であることと、同じことです。