ある種の技芸について、あるいは、id:kururu_goedel さんの「「技芸」に関してとんでもない誤解をされている…」を読んで思ったこと

きわめてごく一部でだけ良く知られてことですが、私のこれまでの業績はどれも「ここ掘れ、ワンワン」です。なぜかこれまで誰も研究しなかったテーマをみつけて、基本的な事実のいくつかを証明して、「ここのお宝が埋もれているよ、ワンワン」と鳴き続けます。地道にワンワン鳴いていると、やがて精鋭部隊がやってきて、強力な土木機械で穴を掘り始めてくれます。それを見たポチは満足して、次のお宝を探して原野を走り始めます。

このスタイルを繰り返すのも、これはこれで、それなりのセンスが必要です。

  • なぜか、これまで人々の視野から外れていた、
  • 提案してみれば、優秀な人々の興味をひく、
  • 問題としては、自明ではないが極端に難しくもない
テーマを、探し続けなくてはならないのですから。ふりかえって、独学でそんなセンスを身につけるのは、まず、無理でしたね。多くの方々の教えを受けて、そこそこ通用するレベルになりました。

これって、くるるさんのおっしゃることとは違う意味で、技芸ですよね。

不完全性定理は「現代科学の限界」なるものを示してはいない(号外)

不完全性定理は『真であるが証明できない文が存在する』ではない」を8割ほど書き上げて多忙のまま放置しているタイミングで、たまたま発見しました。

「数学屋のメガネ」2008-09-28(khideaki著)より引用


ゲーデルの定理は、「自然数論において、真でありながらもその公理系では証明不可能な命題が存在する」という言い方をされることが多い。しかし、数学ではその命題が真であるという判断は、証明されて初めて確立するのではないか。証明とは独立に真であることの判断が出来るのだろうか。しかしそれが出来なければ、ゲーデルの定理におけるこのような言い方は出来なくなる。

真であることと証明できることとの明確な定義はどうなっているのだろうか。この疑問にうまく答えることが出来ないので、ちょっと気になっている。今持っている基本的な考えは、真であるという判断は、やはり証明できるということにかかっているのだが、公理系の中の証明と、それを超えたメタ的な証明とがあり、真であるという判断に、証明のレベルの違いが入り込むのではないかということだ。証明という言葉の持つ意味に違いがあるのではないかということを漠然と感じている。ゲーデルの定理に関してちょっと調べてから考えをまとめたいと思う。

「数理論理学を学んできました」と自称していて、これはあかんでしょう。形式的体系における「真である」と「証明できる」の定義は、数理論理学の教科書の最初のほうに書いてあることですよ。それが「この疑問にうまく答えることが出来ない」では、半期の入門コースでも可すら出ませんね。私の担当科目では出しません。

普通に読むと、ゲーデルの定理云々の文脈だから形式的体系での話だけど、そこを目をつむって数学における「真である」と「証明できる」が何であるかについてだと解釈しても、辻褄が合いません。数学において「真である」と「証明できる」とは何かは、原理的には数理論理学の外の問題です。「ゲーデルの定理に関してちょっと調べて」どうにかなる話ではありません。微分方程式とその解の定義は解析学の教科書の最初のほうに書いてあるが、微分方程式を解くことが現実の物理現象を調べることに対応しているかどうかが原理的には解析学の外の問題であることと、同じことです。

-yのカタカナ表記

書いていたら入れ違いでTAKESANさんがコメント欄を閉じられたので、せっかく書いたものがもったいないというだけの理由で、ここに置きます。


否定しなかったことを肯定と解釈されるとかなわないなあ。

単に興味がなかったので答えなかっただけなんですが、誤解されたのはしかたないので、遅ればせながらお答えします。工学系研究者には何の責任もありません。少なくとも私の知っている工学系研究者は、工学系の慣習は工学用語に限定されることを自覚していて、工学用語以外に工学系の慣習を適用したりしません。○○大学情報処理センターに所属する人が、勝手に「情報処理センタ」所属を名乗ったりはしません。工学用語を超えて適用している人がいたら、それはそうする人の責任であって、工学系研究者の与り知らぬことです。

-y を長音符をつけずに表記することは、工学系の文化にあります。memory は「メモリ」です。手元にある情報処理学会学会誌2008年9月号で確認してみましたが、複数の著者を通じて「メモリ」が使われています。その他、「ライブラリ」「レポジトリ」「コミュニティ」があって、-y は基本的に長音符なしになっています。該当しない「サックラーギャラリー」と「ヒエラルキー」がありますが、前者は固有名詞、後者は非英語起源ですね。「テクノロジー」「ファミリー」は、工学用語ではないとみなされているのか、例外的な慣用なのかわかりません。「コンピテンシ」と「コンピテンシー」が著者によってわかれているのは謎です。

あと、細かいことですが、「ユーザ」は情報処理用語です。人間の利用者の意味の他に、「ユーザ○○」の形で「特権を持たない状態、または、その状態で動作するもの」の用法があります。