「我流でゲーデル解釈」について II

ひとつ心配なのは、この高校情報科教員さんがこの我流の解釈とやらを生徒の前で口走らないかということです。完全性定理と不完全性定理への誤解が広まるのはもちろん困りますが、もっと困ることがあります。数学の定理を我流で解釈していいんだと若い人が思ってしまうことです。ひとたび我流でいいんだと思い込んだら、以後、数学をまともに学べなくなってしまいます。

この件については、この人の教員としての良識に期待するしかありません。

さて、解説のつづきです。


ゲーデルの完全性定理 が示したことは、

  ◇ どんな命題であっても、前提と論法から導けるか否か (真か偽か) を、必ず示すことができる。

  ◇ 前提と論法から正しく導ける命題 (真である命題) は、有限個である。

つっこみどころが複数あるので、ひとつずつつっこんでいきます。

「前提と論法」は「公理と推論規則」のことだと思うけど、この辺の言葉の使い方の粗雑さは致命的ではないので、とりあえず、おいておきます。言葉の問題ですまないのは、「導けるか否か (真か偽か)」のほうです。証明可能性と真理性は全然違うものなのに、同一視しちゃってます。完全性定理は、別々に定義された証明可能性と真理性が、実は一階述語論理では同値ですよという定理です。それを端から同一視してしまったのでは、定理の前提をぶっこわしています。完全性定理が何について語っているかがまったく見えていません。

では、完全性定理って何? については、私が勤務先のページに書いた解説から引用抜粋して転載します。これを読むのが面倒な方は、とりあえず、証明可能性と真理性の関係について述べているのが完全性定理なのに、端から両者を混同していては、何やってんだかわかんなくなることだけ、押さえておいてください。


論理を研究するには、おおざっぱに分けて二通りの手法がある(あくまで、おおざっぱな話である)。ここでは、構文論的手法と意味論的手法と呼ぶことにしよう。

両手法に共通に出発点として、まず、式(formula)を定める作業が必要となる。多くの場合、「記号列のうちかくかくしかじかなものは式である」といった形で式を定義する。

構文論的手法では、どの式が「証明可能」であるかを定める。多くの場合は、次のような手続きを経る。ある式、または、あるパターンにマッチする式を選び、それらを「公理」と呼ぶ。いくつかの式から式を導く規則をいくつか与え、それらを「推論規則」と呼ぶ。公理は証明可能である。すでに証明可能であることがわかっている式から推論規則で得られる式は証明可能である。以上の手続きで証明可能であると示すことのできる式のみが、証明可能であるとする。

意味論的手法では、式の集合の外に、意味空間などと呼ばれる構造を考える。式からある意味空間への対応で、ある条件をみたすものを解釈と呼ぶ。どのような意味空間を考えどのようなものを解釈とするかを決めることを、意味論を入れるという。同じ論理体系に対して、異なる意味論を入れることもできる。意味空間には、「真」と呼ばれる値がある。式がある解釈で「真」に対応するとき、その式はその解釈で真であるという。式がある意味論のすべての解釈で真となるとき、その式は恒真であるという。

ある論理体系とある意味論において、すべての証明可能な式が恒真であるとき、その論理体系はその意味論に対して健全であるという。すべての恒真な式が証明可能であるとき、その論理体系はその意味論に対して完全であるという。古典一階述語論理は(通常の解釈に対して)健全かつ完全であるというのが、ゲーデルの完全性定理である。これは、次のことと同値である。古典一階述語論理上の公理系について、その公理系から証明可能な式全体と、その公理系が真となるすべての解釈で真となる式全体は、一致する。ここで、公理系に、一階述語論理の言語の文(自由変数を持たない式)の集合であること以外の制限はない。

(つづく……と思うけど自信はない)