本務先のページにいずれ書き加えたいこと(おまけ編)

本務先の研究室サーバに置いている「書評」のページの「おまけ」の部分に書き加えたいけど、必要な調査ができていないために、まだ、書けないでいることがある。「よくある間違い」のベージに「体系に数学的帰納法が入っていることが不完全性定理の本質である」を入れたいのだが、「よくある」かどうかが確認できていない。

この間違いが流布している現場を確認できていない。だれがこの間違いを言ったかは教えてもらったのだが、出典を聞くのを忘れていた。探しているが、まだ、みつけていない。

流布の現場が確認できたら、間違いであることの解説を書くのは簡単だ。「RobinsonのQ」の一言で終わる。id:ytb:20081209:p1 で教えていただいた "Weak theories and essential incompleteness" (Vitezslav Svejdar) の紹介も解説に加えると、もっと良いかも。

本務先のページにいずれ書き加えたいこと

本務先の研究室サーバに置いている「書評」のページに書き加えたいけど、まだ考えがまとまっていないことを、とりあえず、ここに書いておく。考えがまとまったら本務先ページに反映させたい。

数理論理学を学ぶために最低限必要なセンスが三つあると指摘している。

  • シンタックスとセマンティクスが区別できること
  • オブジェクトレベルとメタレベルが区別できること
  • シンタックスとセマンティクスの区別と、オブジェクトレベルとメタレベルの区別が、区別できること

書き加えたいことはいくつかあるが、いずれもこれに関すること。

三つめについて

初期には、最後の一つがなく「二つのセンス」だった。

三つめを加えたきっかけは、何かの文書を読んだことだった。その文書では、シンタックスとセマンティクスの区別は何ページも使ってきっちりと解説し、また、オブジェクトレベルとメタレベルもきちんと区別して解説していた。それなのに、どうも変だと感じた。じっくり読んで、その文書の書き方では、シンタックスとセマンティクスの区別とオブジェクトレベルとメタレベルの区別を、同じものだと読者に誤解させるおそれがあることが理由だとわかった。そこで、三つめのセンスを自分のページに書き加えた。

その文書が何だったかが、今となってはわからない。数学啓蒙書の可能性が高いのだが、心当たりを何冊か探して読んだが、まだ、該当するものをみつけることができないでいる。

リハビリに適した本について

三つの必須なセンスを持たなくても、日常的な論理の感覚をたよりに数理論理学がわかっているつもりになることはできると書いた。そして、その状態からのリハビリに適した入門書を二冊紹介した。

嘘は書いていないのだが、今の書き方では、その二冊の本に上記の三つのセンスについて論じている部分があると誤解されるおそれがある。内容を絞ってそのかわりにみっちり解説した入門書を読むと、なぜか、上記の三つのセンスがいつのまにか身に付くだろうという主旨なのだが、そこを誤解のないよううまく表現できないでいる。

数理論理学とプログラミング、特に基幹ソフトウェアのプログラミングについて

対象も論理、それを分析する手段も論理、を循環論法のように感じる人がいるそうだが、私は、そのように感じたことは一度もなかった。Cで書かれたCコンパイラをブートストラップでビルドするのと、同じ感覚だったからだ。

また、若いころに出会った先人たちにも、ロジシャン兼システム系プログラマのような人が多かった。

個人的な経験を(過度に)一般化して、プログラミング、特にOSや言語処理系などの基幹ソフトウェアのプログラミングの経験は数理論理学を学ぶのに役立つと、かつては思っていた。最近、そうでもないのではと思ってきた。単に、ロジシャンに必要な能力とシステム系プログラマに必要な能力に、共通部分が多いだけではないかと考えが変わってきた。

完全性定理って、そんなに難しいものなの?

小島寛之さんも、理論の完全性と理論のモデルに対する完全性(証明論的完全性と意味論的完全性)を混同しています。「ゲーデル本食い歩き - hiroyukikojimaの日記」より、該当部分を引用します。

命題論理の場合、「命題論理の完全性定理」によって、正しい命題(付値が1である命題)には必ず証明が存在するから、φまたは¬φのどちらかは正しいので、どちらかは証明できてしまう。

たとえば、\varphi として p を考えるだけで、引用文が間違いであることがわかります。原始論理式 p に対して、非論理公理なしで p\neg p も証明できるはずがありません。

吉永良正さんも、『ゲーデル不完全性定理』( isbn:4061329472 )で、まったく同じ間違いをしています。

「命題論理の完全性定理」をちゃんと理解していれば、こんなとんでもない間違いはしないんですけどね。完全性定理って、その主張を理解することすら困難な難しい定理ですか? 数学啓蒙書で実績のある二人が、そろってまったく同じ間違いを犯すほど,難しい定理なんですか?

2011年12月16日追記:
吉永良正さんの間違いについては、「書評」からたぐっていけるところに書いているので、必要な方は参照ください。小島寛之さんの間違いにもそのまま適用できます。

説明いろいろ

具体例?

学生さんにとある証明を解説していたときのことです。

「『PでありQでないものは存在しない』と『Pであるものは必ずQである』は同じことだよね」と説明してもわかってもらえませんでした。そこで、「『タクシー運転手で自動車運転免許を持たない人はいない』と『タクシー運転手はみな自動車運転免許を持っている』は同じことだよね」というと、「エウレカ!」でした。

人間の認知の特性を見たと思いました。

情報科学科限定?

上とは別件で、対象レベルとメタレベルの区別の説明の際に使った例です。

wcコマンドのソースコードのサイズを調べるためにwcコマンドを使って

wc wc.c

を実行した時、実行したwcコマンドにとって wc.c は単なるテキストファイルであって、それがC言語で書かれたプログラムであることも、wcコマンドを実装していることも、知ったこっちゃないよね。「知ったこっちゃない」は否定ではないよね。

情報科学科の学生さんには理解してもらえたけど、数学科に行って同じ説明をして理解してもらえる自信はありません。

世界で最も広く誤解されている定理

もちろん、不完全性定理のことです。

私自身が最初にこの表現を使ったのは、十年ぐらい前に、他分野の人に計算可能性解析学の歴史的背景の説明をしたときだったと記憶しています。不完全性定理への誤解が広まっていることは多くの人に指摘されていることなので、この表現も前から使われているだろうと思い込んでいたのだけど、ぐぐった限りではみつかりませんでした。

もしかして、私のオリジナル? 自分でいうのもなんだけど、オリジナリティのある表現とは思えないけど。

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