1945年8月6日からの数日間

65年前の今日、私の父は爆心地から60kmも離れた国民学校で生徒として朝礼に出席していました。広島の方向に閃光が見えたそうです。

60km離れた街にとって、地獄はその日の夕方に始まりました。仮復旧した国鉄路線を使って、国鉄駅に重傷者が次々を送られてきたのです。すでに戦争末期で物資も底をついており、薬品も医療器具もありません。担架すら足りないので、周辺の民家の雨戸を外して代用しました。解熱剤の代わりに柿の葉を使いました。一帯の柿の木が丸裸になりました。もちろん、柿の葉の抽出液など重症の火傷と放射線障害には焼け石に水です。治療の名に値するものは一切受けることもできずに次々と亡くなるのですが、火葬の設備すら追いつきません。暑い時期、死体を放置することもできません。近くの川原に死体を山積みにして油をかけて焼くしかありませんでした。これが何日も続きました。父はそれをすべて目撃しています。

この話を後世に伝えるため、父の存命中にどこかに書いておかなくてはならないと思い、ここに書きました。