「我流でゲーデル解釈」について IV

高校情報科教員の看板を掲げて数学の定理を我流で解釈するのはみっともないことです。しかし、みっともない人をみつけるたびにみっともないことはやめろと説得できるほど、人生は長くありません。たいていは、「みっともないよね」と感想を述べるだけで終ります。ちょうと、今やっているように。

さて、前々回および前回と同じ個所です。


ゲーデルの完全性定理 が示したことは、

  ◇ どんな命題であっても、前提と論法から導けるか否か (真か偽か) を、必ず示すことができる。

  ◇ 前提と論法から正しく導ける命題 (真である命題) は、有限個である。

つっこみどころが複数あるので、ひとつずつつっこんでいます。今回は三つめのつっこみどころです。

前回は、用語の混乱である「前提と論法」は「公理と推論規則」に直し、致命的な間違いの「導けるか否か (真か偽か)」の括弧内の部分を削っても、一つめの項目はまだ致命的に間違っていることを書きました。今回は、二つめの項目についてです。同じ修正を加えて、「公理と推論規則から導ける文は、有限個である」としても、やはり致命的に間違っています。一階述語論理で証明可能な文は普通は可算無限個です*1。有限個ではありません。

有限個ではないことは、簡単にわかることです。たとえば、
p(c)\rightarrow p(c),
p(c) \rightarrow (p(c) \rightarrow p(c)),
p(c) \rightarrow (p(c) \rightarrow (p(c) \rightarrow p(c))),
p(c) \rightarrow (p(c) \rightarrow (p(c) \rightarrow (p(c) \rightarrow p(c)))),
...
とか、
p(c)\rightarrow p(c),
p(c) \rightarrow p(c) \vee p(f(c)),
p(c) \rightarrow p(c) \vee p(f(c)) \vee p(f(f(c))),
p(c) \rightarrow p(c) \vee p(f(c)) \vee p(f(f(c))) \vee p(f(f(f(c)))),
...
とかのように、いくらでも可算無限系列を作ることができます。

公理と推論規則が有限個でも、そこから導かれる式は、一般に可算無限個になります。規則の適用回数に上限はないからです。

(つづく……可能性は否定できない)

*1:可算言語でない場合はその限りでないが、普通は、気にしなくて大丈夫。