不完全性定理は「現代科学の限界」なるものを示してはいない(号外)

「ブログ・エントリーのための覚え書き」(id:khideaki:20080928:1222593261)について、「あかんでしょ」と書いた(id:wd0:20080930:b)直後に、あちらのほうで、「うまい説明とは(id:khideaki:20081003:1222993885)」「形式システムにおける証明の概念(id:khideaki:20081004:1223119418)」と続いたのは、「理解しています。うまい説明が難しいだけです」との釈明の意図も含まれているのでしょうか。もし、そうなら、id:khideaki:20081004:1223119418 は推敲が足りません。このままでは、最後の二つの段落が、完全性定理の「完全」と不完全性定理の「完全」を混同している半可通が書いたものと区別できません。

以下、2008年10月5日23:35(日本標準時)における id:khideaki:20081004:1223119418 の最後の二つの段落の引用です。次に見たら、完全性定理の「完全」と不完全性定理の「完全」の違いを著者がちゃんと理解していることが読者にもすぐにわかる文章に、さりげなく書き換えられていることを期待します。


命題論理においては、意味論的に定義された「真である」命題が、構文論的(生成規則によって生み出されるという考え方)に「証明された」命題と完全に一致することが証明されている。つまり、完全性が確かめられている。

ゲーデル不完全性定理では、自然数論を形式システムとして構築したときに、意味論的に「真である」にもかかわらず、その形式システムでは記号列の生成として「証明できない」命題が存在するということが語られている。だからこそ不完全だといわれている。形としては、上のような単純な「pqシステム」と同じだ。しかし自然数論における意味論的な「真である」という概念はやはりわかりにくい。これが、果たしてうまく説明できるだろうか。