広島原爆の閃光はどこまで見えたか (つづき)

庄原からも閃光が見えたとの証言の伝聞を拝読しました。

そこには、庄原に被曝者が運ばれたことについても、書かれています。

三次でも同じことがありました。無傷だった芸備線で負傷者が続々と送られてきたのですが、医薬品不足でろくな治療ができません。解熱剤すらなく柿の葉で代用したため、近隣の柿の木が丸裸になったとのことです。そんな状況なので、多くの人がそのまま死亡し、ひとりひとり弔っている余裕もないのでたくさんの遺体を川原に積んでまとめて焼いたそうです。当時、国民学校生(現在の小学生)だった私の父がその様子を目撃しています。

もしかすると、今も馬洗川の川原に遺骨が埋まったままかもしれません。